佐々木悟郎インタビュー【自分のビジョンが上がれば、スキルは上がる。】
2019年5月発行のJILLA機関紙「笑顔 5月号」に掲載したインタビューは、紙面の都合により一部をカットして掲載させていただきました。このブログでは、インタビューの全文を掲載させていただきます。
プロフィール:
愛知県立芸術大学デザイン科卒業。アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン卒業。
ニューヨーク・ソサエティ・オブ・イラストレーター学生コンペ入賞以後、NAAC展ADC部門特選、
ニューヨーク・ソサエティ・オブ・イラストレーターズ入賞、講談社出版文化賞さしえ賞など多数受賞。
書籍カバーデザイン、CDジャケット、記念切手、ポスターなど、幅広い分野で活動を続ける。
自分のビジョンが上がれば、スキルは上がる。
JILLA Atelier GORO(水彩講座) 講師 イラストレーター 佐々木悟郎
GOROさんがイラストレーターになろうと思ったのはいつ頃ですか。
イラストは、高校くらいから意識し始めたかな。日本では、横尾忠則や、黒田征太郎、真鍋博などのスタープレーヤーがいました。
それで多摩美と、愛知県芸を受験しました。どっちも通ったんだけど、県芸は公立なんで授業料が安かったんです。両親も公立を進めたし、家から通えるしっていうんで愛知県芸に決めた。
当時は芸大でもイラスト専門的にを教える授業ってなかったんです。
だからデザイン科に入って、ポスター作ったりイラストを自分なりに表現したり、ある意味我流でやっていました。
大学の図書館がすごく良くてね。そこで読んだアイデアという雑誌でミルトングレイザーに衝撃を受けた。ミルトンの絵はポップで、音楽でいうビートルズだと思ったんだよね。
そういう人を元気にさせる絵を描きたい、って思った。
やはり、子供の頃から好きでしたか。
昔から絵が好きでしたよ。小学校の時から入選や佳作に入りましたね。
両親も絵を描くし家には画集もあったし、親子で絵を習ったりもした。愛知県芸も父親が見つけきて教えてくれた。そういう意味で環境には恵まれていたかもしれないね。
画家とイラストレーションが「違う」と意識し始めたのはいつ頃ですか。
なんとなくはわかっていたんだけど、デザインの勉強をしてエディトリアルを理解した時に「こういうものか」と改めて理解した。つまりデザインも好きだったということです。
今も、レイアウトなどやったりします。
その後、海外に行って勉強されてますよね?どうしてアメリカに行こうと思ったんですか。
4年間デザインをやったけど、まだまだだと思った。絵は特にね。
大学院も考えたんだけど、当時の日本はイラストをちゃんと教えるカリキュラムがなかったから日本にいる間は無理だと思ったんです。
愛知県芸に、アメリカでアートを学んできた先生がいて、奥さんがアメリカ人でスーザンって言うんだけど「イラストレーションをちゃんと学ぼうと思ったらアメリカよ」という話になって、どこの学校に行けば良いか相談したんだけど、スーザンが「GORO、どんな学校があるかまず自分で調べなさい」って。
それで文化センターとかあちこち回ってコピーしてスーザンに持って行ったら、スーザンがリストの中から10校くらいに絞ってくれました。その中の5つくらいに資料請求したんだけど、アートセンター・カレッジ・オブ・デザインの学生の作品が群を抜いて良かった。
学費は多摩美よりちょっと高いくらいだったかな。父親は「奨学金をとる約束するなら良いよ」って言ってくれたんで、決めました。
アートセンターは、相当課題が厳しかったと伺ってますが。
朝は9時に始まる。15分過ぎるともう教室に入れない(笑)で、遅刻を3回繰り返すと単位が取れない。
授業は、基礎からやる。カラースタディ、パースペクティブ、JILLAの大阪の講座でもやったドローイングもそう。JILLAの講座の初回で僕が良くやるカラースタディ、あれもアートセンターで学んだことです。
もちろん課題も厳しい。課題は毎日。昼のクラスと選択授業でナイトクラスもある。
月~金だから課題は週に5つ出るんだけど、学校だけで終わらないから夜と週末でその課題に取り組む。だけど週末は食料の買い出しや洗濯もしなきゃいけないでしょ?だいたいそれで週末が終わっちゃう(笑)
画材は、最初から水彩というわけではなかったんですよね。
画材は何でもやりましたよ。リキテックス、ガッシュ、パステル、水彩もその1つ。ドクターマーチン(カラーインク)も使ってみたけど、色がすぐ劣化しちゃう。
それで、先生が勧めてくれた水彩を試した時、初めて透明水彩の良さを知ったというか、自分にとってもしっくりきたんだよね。
最初は水彩で描いて背景をアクリルで塗っていたんだけど、透明水彩だけで描くようになったのは日本に帰ってきてからかな。
卒業したら帰国しようと決めていたんですか。
いや、戻るつもりは無かったんだけど父親が倒れて、卒業の3日前に亡くなったんです。このタイミングで帰国するとビザが切れるけど、色々考えて帰国することにしました。
3ヶ月くらいは実家にいたけど、落ち着いた頃に東京で住み始めた。東京は出版社が多かったし結婚した奥さんの実家も関東だったしね。
アメリカから戻って、すぐに仕事はありましたか。
ほとんど仕事はないですよ。2年くらい無かったかな。ポートフォリオだけが頼り。作品に自信はあったんだけどね。
営業に関しては、唯一の望みが粟津潔さんとの繋がりだったんですよ。アメリカにいた時、友人のお父さんが粟津潔さんをよく知っていて「佐々木悟郎ってやつが日本から来て頑張ってるよ」って言ってくれたみたいで。世界デザイン会議でアメリカに来られていた粟津さんが僕のアパートに寄ってくれて「日本に帰ってくることがあったら、うちにおいでよ」って名刺をくれたんです。
それで、日本に戻ってから粟津さんのところへ行ったら田中一光とか、永井一正とか、凄い人ばかりを10人くらいリストアップしてくれました。
リストの中にK2(黒田征太郎と長友啓典さんの事務所)があった。僕は昔からK2の大ファンだったので、K2の事務所に行ったら黒田征太郎さんが僕の絵を見てくれて、そこで紹介してくれたのが松永真さん。
当時のアメリカは景気があまり良くない時代で絵に対して「まじめ」さがあったんだけど、日本は景気が良くて、絵が「元気・雑」に見えたんだよね。松永さんは僕の絵を見て「どんなに時代が変わってもこういう絵は必要」と言ってくれて、しばらくは絵を見てもらって、直して、というのを続けましたね。
すぐ仕事には繋がらないんだけど、2年くらい経った頃かな?ある日集英社から電話が入って雑誌の星占いの連載の仕事が決まった。ADのところを見たら松永シンさんだった。それが最初の僕のレギュラーの仕事。
GOROさんの今の作風、つまり「GOROテイスト」が出来上がったのはいつ頃ですか。
仕事はね、しばらくは水彩のバックにマスキングしてアクリルも併用して描いてました。ある日暑中見舞いを描こうと思って、小中学校の写生が大好きだったんでその感じを出せないかと思って雑誌を色々見て15分でスケッチして、1時間くらいで描きあげたのが画集の表紙にもなってるサンタモニカの海辺のカップルの絵なんです。
暑中見舞いにして持ち歩いたら、みんな「いいね」って言ってくれたんです。1週間後くらいにそのタッチでやってくれないかと仕事が来た。1985,6年の頃かな。
ずっとフリーランスですか?会社に入ろうとは思わなかったんですか。
就職したほうがいいか助言を仰いた時に「会社にはいったらいろんな仕事をやらなきゃいけないから、絵はかけなくなるよ」って言われた。絵を描きたいから最初からフリーランスの道を選んだ。JALの仕事をした頃くらいから依頼が増えたかな。
どれだけ忙しくても睡眠は6~7時間くらいは取ってましたよ。それは今もずっと変わりません。いい仕事をするのにコンディションは大切。
ライバルはいましたか。
いっぱいいましたよ。悔しい思いもしたしね。でも、タッチも違うので仕方ないと思うようにしたかな。
転機はありましたか。
あのままアメリカにいたらどうなってたか?はいつも考えるね。僕が戻ってきた頃の日本は、鈴木英人さんとか永井さんとか、おしゃれで格好いいアメリカを表現した作品が人気だったんだよね。日本から見たアメリカのイメージと実際に住んで見えてくるアメリカは違うっていうか、どこでもそうだろうけど綺麗で格好いいところばかりじゃないじゃない?
あの時代に、リアルなアメリカの風というかアメリカのセンチメンタルな部分を伝えることできたのは良かったのかもしれない。
親父が亡くならなかったら日本に帰ってこなかったと思います。もしかしたら親父が僕を呼び戻してくれたのかもしれないと、後で考えたらそう思いますね。
仕事を続ける中で、悩んだことはありましたか。
スランプってあったか?と言われることがあるけど、絵に対しては感じたことはないね。
仕事が途切れることもあまりなかったし、人と比べてはだめだと思っていたし。
途中から他のジャンルもやりたいと思うこともあったのは事実。エッチング、油絵などもやってみたけど、それをず~っとやって来た人との差というのは簡単には埋まらないわけ
だからやっぱり「ずっとやり続ける」って大事なことだと思った。水彩の良さもより感じるようになったしね。
GOROさんくらい描き続けていても、もっと上手くなりたいと思うものですか。
もちろんありますよ。ただ、上手くなることが目的ではなくてね。自分の絵のスタイルを考えながら描き続けたいと思いますね。
ずっと水彩で行こうと決めたのは、いつ頃ですか。
ジェームズマクマランの影響が大きいかもしれない。
日本に戻って何年かした頃、マクマランのところで仕事していたという「ジェィ」っていう男から電話があってね。話を聞いたら「ジェィ」はマクマランのところで働いて仕事を近くで見れば見るほど「到底敵わない」と思うようになりイラストレーターになることを諦めて、これから日本でビジネスを始めるんだと言った。それで僕に「見せたいものがあるから会わないか?」と。
で、会うと「ジェィ」は、マクマランが描き損じた絵を沢山保管してて(もちろんマクマランに許可はもらって)、僕に見せてくれた。中には「これ、描き損じじゃないよ~」っていうレベルのも沢山あったけど、マクマランは自分が納得いくまで同じ絵を何度も描きなおしていた。驚愕した。襟を正すきっかけになったと言えばいいかな。
JILLAの僕の講座でやってる「筆の洗い方」も「ジェィ」が教えてくれたものなの。マクマランはこうして筆を洗ってたって。ラファエルの筆を教えてくれたのも「ジェィ」だったかな。
これについては、ちょっと面白い続きがあってね。これから日本でビジネスを始めたい「ジェィ」は、ラップトップパソコンが必要だった。それで「ジェィ」の提案で、マクマランが描き損じた絵が100枚くらいあったのかな、それとラップトップ代をトレードしたんです(笑)
使い終わった絵の具や鉛筆を集めていらっしゃいますよね。
水彩の絵の具って、油絵の具みたいにガンガン使わないですよね。一度開けたら使い終わるまでに何ヶ月もかかるので愛着がわいいちゃって捨てるのが忍びないというか、それで缶かなんかに入れといたんですよね。それがだんだん増えちゃっていっぱいになった時に瓶に入れたら「これそのままディスプレィになるなぁ」と思って(笑)1瓶がいっぱいになるのに10年かかって、それが4本目だから35年はかかってますよね。
鉛筆もそうだね。僕は鉛筆が短くなるとホルダをつけて最後の1センチになるくらいまで使うんですよ。同じものがいっぱいあつまると美しいんですよね。「最後どうすんだよこれ」って言われても困りますけどね(笑)
GOROさんは小物やアンティークをつかったコラージュなどもお好きですね。
小物に限らずアンティークがなぜか若い頃から好きで。アメリカの生活の中でアンティークに出会ったのが大きいかもしれないね。僕が住んでいたパサディナってところは、歴史が古い街だったんでアンティーク店もいくつかあって、時間があるときによく覗いてましたね。
僕が絵の具を入れてる瓶も、パサディナのアンティークショップで買ったものなんですよ。そういうのがきっかけで古いものを集めるようになって絵のモチーフになったりして、意外と役に立っていますね。
コラージュに関してもアンティークの影響は強いかもしれないですね。あとはデザインとかレイアウトが好きだっていうのもあるからかな。特に意識はしてなかったけれど、アメリカ時代からやってましたね。
アイデアブックを持ち始めた頃がアートセンターの時代だったんでもちろんアイデアも描くんだけど、アメリカってラベルとかグラフィックの面白いものがあるのでそれを貼ったりして、だんだん飽き足らず色々作るようになったのが始まりかもしれない。
僕の場合、1940~60年代くらいに作られたフォルムや色とかが好きなんでしょうね。今の工業製品にない色だったり流線形だったり、そういうところが好きですね。特別何を集めているという訳ではないんですけど、アメリカで買ったものが多いかもしれない。描くために買うことはほとんどなくて、そばに置きたいから買って、それが結果的にモチーフになることもあります。
自分自身へのトレーニングとして心がけていることなどはありますか。
特にないんですけど、仕事がトレーニングでしょうか。例えば、2~3日旅行に行って何も描かないとなると手が鈍るというか調子狂っちゃうので、まずは何かさらっと描くということはありますね。絵のためにトレーニングということではなく、ウォーミングアップのような感じ。
大学で今教えているでしょ?僕は学生の前で必ずデモンストレーションするんですよ。今のJILLAの講座もそうですよね。人前で描くという行為はそれなりの覚悟や緊張感がいるしテクニックも見せなければならないので、訓練といえばそれが訓練になっていますよね。
若いうちにやっておいたほうが良いことはありますか。
具体的にイラストレーターとしてということで良いですか?
必ず一冊自分のスケッチブックを作るといいですね。糸でかがってある簡単に破れないものがいいです。リングだとすぐに破って、はい次ってなっちゃうので、それができないやつね。なかったことにしない(笑)。失敗しても良いんですよ。上手く描けなかったのはなぜかな?と考えれば良い。
毎日何かしら描く、たいそうな絵じゃなくていいのでね。ペン画でも良いですし。さっき話したことと重複しますけど、手が鈍らないようアイドリングというか間を空けないように。それが1つ。
あとは、ものを見る目。習慣をつけたほうが良い。良いものを見る。絵だけが上手ければいいって問題でもなくて感性の問題ですけど、観察する習慣をつけたほうが良い。美術でもいいし、写真でもいいし映画でもいいかもしれない。
本をよく読むんですよね。それが絵に生きているかもしれないと思うことがあります。小説を読むと作家の世界観や哲学がわかるので、世界観を広げるというか。文章を読んで描く仕事も多いですし、読解力も大事ですよ。
JILLAでGOROさんの講座を受講した人へメッセージはありますか。
人に教えるということは、自分自身を客観的に見れないとできないことなんですよ。どこまで自分ができて、何を伝えようとしているのかがわかってないと教えられないんです。的確に伝える前に、いかに自分が理解してるかということを確認する。教えること事が自分の勉強になっているなというか、自分に戻ってきていると感じます。良い機会をいただいているなと。自分自身を再確認するというか、教えるためのロジックを作るようになった。感覚で理解していたことも教える機会を得ることで、「なんとなく」がなくなったと思います。
昔は自分の絵に対する考え方が頑固だったと思うんですよね。でも教えるということは受講生の潜在能力をいかに広げるかなので、いろんな人がいるので柔軟性がついたというか、幅が広がったと感じますね。
何百年残る絵、そこには他と違うものがある。
イラストレーターとして更に上を目指したい人へメッセージはありますか。
難しい質問ですねぇ~。観察って無限なんで、観察すればするほどいろんなものが見えてくる。写実という意味でなくてもののありようをどう自分が捉えるか、どう簡略化するかとか。
浮世絵がなぜあんなに魅力的なのかというと、簡略化されているそのデザイン性だったりすると思うんですよね。いろんな画家を見るというのは、手法を見るのではなくて画家の目を見ることだと思うんです。画家がどういう目で見てそれを絵にしたか。
そういう意味で古い絵はいっぱい見たほうが良い。何百年残っている絵は何かそこには他と違うものがあるんですよ。そうじゃないと残らない。
スキルって、自分のビジョンが上がれば上がるんですよ。
JILLAの授業でも僕は何度か言っていますけど「どうやったら上手くなるか?」とか「どうやったら簡単に描けるか?」とか、そういう方法論はゼロです。近道はないです。むしろやればやるほど難しい。それがわかってくれるだけでも嬉しいかもしれない。
料理とかも「時短で」とかありますけど、絵にはないと思うんですよね。あったとしてもそれは「そういう絵」。僕らが求めるのはそういう絵じゃないはず。
こういう絵を描を描けば仕事が取れるというのは言えないです。僕もわかりません。良い作品を作ることは絶対。丁寧に向き合っていくことしかないね。
仕事とプライベートの切り替えはどうしていますか。
大きな切り替えってのは全く無いです。小さな気分転換はありますけど。決めていることは、なるべく早寝早起きをするということ。6時半には起きて8時には仕事を始めてますね。やらなきゃいけないことを先に片付ける。あとは自分の時間。
最後に、GOROさんがこれからしたいと思っていることはありますか。
絵の向上をどう追求していくかというのはなんとなくありますね。それはやっていくと思う。音楽とか、すでにやりたいことはやってますからあれもしたいこれもしたいというのはないですね。
音楽、エッセイ、写真、今までやってきたことをそのまま続けたい。そういうものをいずれまとめたいですね。楽しいじゃないですか、何かやりたいとすればそういうことですかね。
GORO先生、貴重なお時間をいただき大変ありがとうございました。
JILLAセミナー「atelier GORO」の方も引き続きよろしくお願いいたします。